携帯を忘れた日

昨日会議で街中まで出かけたときに、現場に着いてから携帯電話を忘れたことに気づいた。家で背広に着替えたとき、携帯電話を持って行かなくちゃとタンスの上に置いたまでは覚えているのだが、紙の手帳をポケットに入れた時点で携帯の存在を忘れていた。
そこにあるものと思っているとなんとも思わないのだが、無いとわかるとたちまち不安に襲われる。携帯電話の存在がいかに大きくなっているか、あらためて認識した。外部からの電話やメールを受けられないのも痛いことは痛い。しかし、妻の携帯電話番号すら覚えていないので、家とも連絡がとれないのにはさすがにどうかと思った。帰りは迎えに来てもらおうかと思っていたが、それもかなわない。
携帯電話を使うようになったのはいつ頃だろう。もう15年以上前にはなると思うが、今や自分の生活の中に深く入り込んでしまっている。何か感慨深い。もう、切っても切れないツールになっているのに、一方で携帯電話に依存していることを認めたくない自分がいる。
ぼくにとって携帯電話もパソコンも今や必要不可欠だが、しかしそれが無い時代を過ごしてきたこともあるので、こんな気持ちになるのだろう。子どもたちの世代にとっては、あるのが当たり前なのだから、それが無いのは考えられないのだろう。
明治時代に過ごした人たちはどんな思いがよぎっただろうかと飛躍する。電気がある生活とない生活。汽車がある生活とない生活。あるいは時代が下って、昭和の初めくらいの人たち。自動車がある生活と無い生活。ラジオが、テレビがある生活と無い生活。皆同じような感慨を持って時代を過ごしたのかもしれない。
つらつらとそんなことを思いながら、タクシーでその日は帰宅した。